image
image
image
image
image
image
image

image

image
 
 
   
Home>>友の会トピック
 友 の 会 ト ピ ッ ク

 友の会トピックとは,皆様に配布される「化石」の中にある「化石友の会コーナー」内に掲載されている記事です.友の会小委員会の委員が順番に,化石の時事ネタ,研究活動,学会活動,普段の仕事などいろいろなテーマについて書き綴ります.もちろんそれだけではなく,会員の皆様から寄せられた声,こんなことを書いて欲しい!この化石の解説をしてほしい,などリクエストがあれば答えていこうと思います.化石91号に掲載された第1回目は,間嶋委員長による寄稿となります.

日本古生物学会博物館レスキュー活動に参加して

間嶋隆一(横浜国立大学)

 昨年3月11日に起きた大震災では,東北地方を中心に多くの自然系博物館が被災しました.学会では,真鍋 真さんや西 弘嗣さんが地震直後から被災した博物館の情報を刻々と学会に報告して下さいました.岩手県からは,大石雅之さんが県内各地の被災博物館の状況と今何が必要かを様々な団体に報告され,こうした報告を受けまして,学会内に真鍋 真さんを委員長とする「被災博物館等レスキュー委員会」が立ち上り100万円の活動資金でレスキュー活動をして頂く事になりました.レスキュー委員会の活動の一環として,陸前高田市立博物館の被災標本の救済が第一次と第二次に分けて大石雅之さんの指揮の下に行われました.私は第二次の標本レスキュー作業に参加致しましたので,その報告をさせて頂きます.

 日程は昨年の10月4日から7日でしたが,本務先の会議の都合で10月5日の夜から参加させて頂きました.大石さんが,車で最寄りの駅まで迎えに来て下さり,宿泊場所になっているホロタイの郷「炭の家」に向かいました.車中で大石さんから三陸沿岸の被災状況をお聞きし,改めて今回の津波被害の大きさを再認識しました.宿に着きますと,皆様今日のお仕事の疲れを癒されており,夕食の時間になりますと仕出しのお弁当(図1)が今夜の夕食でした.私は,「量が少し少ないのではないのかな」と思ったのですが,大路樹生さんに「ここは被災地なので食料の確保がなかなか大変だ」という説明を受けまして,改めて被害の大きさを実感致しました.ちなみに翌日はカレーライスが夕食の献立で私が食事当番になっていました.カレーライスは奥村よほ子さんが作って下さいました.端で見ていますと最後に隠し味ということで,粉コーヒーやらチョコレートなどを放り込んでいるので,少し心配になりましたが,大変美味しかったです.カレーライスの鬼と言われている大路さんも満足されていました.カレーが出来た後,私はカレーの盛りつけ係を担当したのですが,適当に盛りつけていますと,盛りつけたお肉の量に差がある等の苦情が殺到しまして困惑しました.その晩は,委員会の顧問である永広昌之先生を中心に懇親会(図2)が開かれ,最後まで残った若い人と午前2時位まで色々な事を語り合いました.そのメンバーを中心に今回の「化石友の会」小委員会の構成が決まったのです.

図1. 夕食に出たお弁当.
図2. 夜の懇親会風景.

 生出小学校(図3:震災とは関係無く昨年3月で廃校)での標本レスキューは極めて慎重な作業が行われました.博物館内の瓦礫と堆積土の中から自衛隊の援助によって発掘され,発掘場所ごとにケース(もろぶた)に仕分けられた被災標本を3つのチームに分かれて処理を行いました.私のチームは,川辺文久さん,小林快次さん,松原尚志さんでした,標本グループの確認→ラベルの有無の確認→水での泥落とし(標本とラベル)→薬品での洗浄(標本とラベル)→水でのすすぎ(標本とラベル)(ここまでが野外での作業)→標本グループ毎にケースに入れて乾燥→内容の記載→ケース単位の写真撮影という作業が延々と続けられました(図4).少しでもいい加減な作業を行うと松原さんから叱責が飛び,久しぶりに出来の悪い学生気分になったりしました.松原さんはラベルの扱いに慎重で,私が救済不可能と判断したものでも,必死に作業を行われ,頭の下がる思いでした.化石標本は地質時代の生物の希有の残存物で極めて貴重な物です.ここに集まった方々は,その事実をしっかり受け止められている事を痛感致しました.

図3. 第二次レスキューに参加したメンバー.
図4. 標本洗浄作業.

 10月6日は,午前中被災した博物館をはじめとする市街地の様子を見に行く事になりました.車で移動する途中,生出小学校より博物館に近い所に廃校の小学校があったので,私は大石さんに「標本を何故あんな山奥の場所に移動させるのか?博物館に近いこの小学校を使えばいいのに」と質問を致しました.しかし大石さんの答えに言葉を失いました.その小学校は一月前までご遺体の安置所だったそうです.陸前高田市街に入りますと,市街は整然と積まれた瓦礫の山と津波に流されて壊れた車が並んでいるだけで,わずかに残った鉄筋の建物以外は何もありませんでした.最初に「海と貝のミュージアム」,そして「陸前高田市立博物館」(図5)を視察させて頂きました.いずれも津波は屋根を越えたそうで,このあたりから目の前の現実に声が出なくなりました.博物館の内部は,既に標本レスキューのために片づけられておりましたが,被災当時は,瓦礫が詰まった状態だったそうです.博物館を下から見上げますと,津波が2階の天井を洗い,天井の板がほとんど失われていることがはっきりと分かります(図6).博物館の近くにある体育館は避難所となっていたそうですが,やはり津波は天井にまで達し,多くの方が亡くなられたそうです(図8).図8の写真の天井の板が抜け落ちているのは,そこまで津波が上がったためです.

図5. 陸前高田市立博物館(左側の建物).
図6. 天井が流されてしまった博物館の2階.

 体育館の前に巨大な花崗岩のブロックが転がっておりました(図7の左写真).このブロックを良く見ると銘板があり,なんと字が完全に逆さになっておりました(図7の中写真).このブロックは,生出小学校の校庭に置かれていたブロンズ像(図7の右写真)の台座だったそうです.ブロンズ像は図7のブロックの下側にあった事になります.大石さんによりますと,このブロックは十数m程度移動して現在の位置で止まったそうです.

図7. 左:体育館前の巨石.
図7. 中:この巨石は完全に上下が逆転している. 図7. 右:生出小学校校庭に置かれた巨石の上に立てられていたブロンズ像.

 最後に市役所に行きますと,被災した車が置かれていました.これらの車は,まるで何かに握り潰されたように大破しており,車種すら分からない状態でした(図9).一体,どういう力が加わればこんな状態になるのか,ただ呆然と見つめるばかりでした.地球科学を専門とする一人の研究者として,ここで見た状況はあまりに衝撃的でした.自然の力と言ってしまえばそれまでですが,私たち古生物学者は過去にもっと大きな自然の力が働いた事を知っています.この事実を実感として感じ,そしてどのように伝えて行くのか.今回のレスキュー活動や視察が,私の今後の研究や教育に,極めて大きな方向性を与えた事だけは間違いありません.

図8. 避難所であった体育館の内部.津波は天井にまで達した. 図9. 市役所前の被災した車.何かに握り潰されたように壊れている.

 ここで使用した写真の一部は,大石さんと奥村さんが第一次と第二次レスキュー作業についてまとめられたパワーポイントファイルから転載させて頂きました.陸前高田市の職員の皆様には大変お世話になりました.この場をお借りして心から感謝致します.なお,この一文はレスキュー活動に参加した私の感想を書いたもので,レスキュー活動の報告書ではありません.ここに書かれております内容の責任は全て私にあります.最後に,第一次と第二次レスキューに参加された方々のお名前を列挙させて頂きます.

加納学(三笠市立博物館),小林快次(北海道大学),大石雅之・吉田充(岩手県立博物館),永広昌之(東北大),川村寿郎・菊池佳子・千葉和昌(宮城教育大),奥村よほ子(葛生化石館),遠藤大介(筑波大学),兼子尚知(産総技術総合研究所),小池渉・細谷正夫(茨城県立自然博物館),高桑祐司(群馬県立自然史博物館),立澤富朗((有)ジオプランニング),佐藤たまき(東京学芸大),川辺文久(文部科学省),横山一己(国立科学博物館),伊左治鎭司・加藤久佳(千葉県立中央博物館),間嶋隆一(横浜国立大),大島光春・佐藤哲哉・樽創(神奈川県立生命の星・地球博物館),河本和朗(中央構造線博物館),高橋みどり(静岡科学館),大路樹生(名古屋大学),川端清司(大阪市立自然史博物館),先山徹・松原尚志(兵庫県立人と自然の博物館),澤田結基(福山市立大),大橋智之(北九州市立自然史・歴史博物館)

敬称略,ほぼ北から順です.

--Top--
             
   
2012 Palaeontological Society of Japan. All rights are reserved.